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ふくしまからの発信


by tonkoid
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あの忌まわしい出来事を記録

絶対忘れまい、あの時の事。
あけぼの7月号に採用されました。8月号 9月号と続きます。
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初めは外国アメリカのイノリイ州の知人が、福島の中通り福島市はどうだったのかとの答えに(娘)
40代の主婦として、こどもをどう守ったのかという質問に答えるために。


MY MEMORIES OF THE EAST JAPAN EARTHQUAKE

Fukushima, Japan
February 22, 2014

IMMEDIATELY AFTER THE EARTHQUAKE
Now I am trying to record what I remember about the time immediately after the Great Earthquake of East Japan, 2011.

As soon as the Earthquake stopped, I realized that we had no electricity. Since the TV did not work, I turned on the transistor radio. From the radio I learned that the Earthquake had hit all length of the sea coast of North East Japan. “There are about two hundred dead bodies floating to the shore of Miyagi Prefecture,” and similar incredible news were being broadcast all day.・・・・・

「東日本大震災直後の記憶」          真紀子  2014年2月 記

震災直後から私の住む地域は停電になりました。テレビが見れないのでラジオで情報を得てました。ラジオでは「宮城県の沿岸では100~200の遺体が流れついている」というとても信じられない津波被害の情報しか流れていませんでした。
夜が明けて次の日のお昼頃に電気がつき、夜になり初めて「福島原発」が大変なことになっていると知りました。とっさにここ福島市と原発の距離を考え「60㎞もあるから大丈夫だろう」と思いました。翌日から、原発周辺からの避難者が次々と福島市にも流れてきました。各学校が避難所になってると知り、出来るだけ助けになりたいと多くの人がボランティアに行きました。また、浜通りからの親せきを自宅で受け入れた人も多かったと思います。私も、息子を連れて水汲みに何度も出かけました。
3月14日に震災前から原発に対して疑問や不安を持ち勉強をしていた人から連絡がはいりました。「これから会津へ避難する。子供がいる家庭は避難したほうがいい」と。
初めは、「何を言ってるの?」と、あまり真剣には考えませんでした。しかし、時を同じく浜通り(浪江)から避難してきた親せきが「明日、15日は夕方から天気が崩れる、雨や雪の可能性が高いから外には出ない方がいい」と言いだしたので、「これは大変なことが起きているのではないか」と思うようになりました。15日は息子を外には出さずにどうにかして福島から脱出できないか考えてました。県外で単身赴任している夫に連絡をしたのですが沿岸店舗が流されたり夫も仕事に追われ「なんとか自力で逃げて欲しい」と言われ喧嘩になりました。結局、外に出ないというなんとも心もとない防御で乗り切ろうとしました。
16日の早朝、親戚から電話がありました。「原発が危ない。もし爆発がこのまま連続して起きたら誰も近づく事は出来なくなる。医者はヨウ素剤を飲んだ。家にあるうがい薬を希釈して子供に飲ませた方がいい。ただ、副作用は親の責任になる。この次爆発したらすぐに子供に飲ませるよう、くれぐれも薄めて飲ませて」
私は家にあるイソジンうがい薬を薄めてコップに用意しました。「どんな爆発?どうなるの?死ぬの?」いろいろな不安が極限になりました。逃げたくても車のガソリンは半分を切ってました。余震は続き、道路も所々で分断されてたら・・・。逃げるのを諦めたときに、県外にいる夫から電話が入りました。「会社でこれから福島にバスを出して家族を避難させることになったから準備をして連絡を待って欲しい。バスに乗れるのはうちは3人。
子供とお前とお母さんの3人」
それから、避難に向けて最低限の荷物を準備して近所に住む姉と妹にその旨を伝えました。
姉は、東京に娘がいたので東京へ車で向かうことになりました。妹は南相馬から親せきが避難してたので自分だけ逃げることはできないと言いました。
妹には3歳の子供がいました。バスで避難が決まった母は「自分は残るから妹の子供をバスに乗せて欲しい」と言いましたが、結局、妹家族は福島に留まることになりました。
雨の降る中、妹がイソジン液をとりに家にきました。紙コップにイソジン液を入れて渡し二人で泣きました。妹が帰った後に、一緒に連れていけない事、自分たちだけが逃げる罪悪感、不安と緊張は極限に達していました。
テレビでは政府が「ただちに影響はない」を連呼していましたが、私たちは「今、すぐに影響はでなくてもいつか出るだろう」と思っていました。
いよいよ、待ち合わせの場所にむかう時間になり私たちは手荷物と、息子には(当時14歳)帽子、マスク、手袋とできるだけ肌をさらさにように注意して車でむかいました。
福島の街は誰も外には出ていなかったのでゴーストタウンのようでした。
夜8時頃にバスが到着して集まっていた会社の家族が乗りました。その時、大粒の雪がボタボタと降っていました。
あの時の雪が、原発から60キロ離れたこの福島を放射能で埋め尽くしたのです。土も木も水も山も川も家も・・・私たちの生活も夢も心にも降り積もったと思っています。
バスは緊急車両ということで使うことができなかった高速道路を使うことができました。
高速の入り口のガソリンスタンドには、ガソリンを求めて翌日の開店を待つ車の列が延々と列を作ってました。
いつもの高速とは違い、その時の高速道路には、とても違和感を感じました。
道路を煌々とてらす灯りがついていないのです。また行き交う車両は殆どが復興支援の物資を乗せたトラックと自衛隊、機動隊の車だけでした。
雪が激しくなり、道路には雪が積もりだしました。その時、私たちが乗るバスで何かの警告音が鳴りだしました。警告音がだんだん大きくなり異常を確かめる為に路肩に車を停めて20分ほど点検をしました。点検が終わり車が動き出すとすぐ前方で事故がおきていたのです。雪用のタイヤをはかないでむかっていたトラックがスリップ事故をおこして玉突き事故をおこしていたのです。もしも、もし、あの時、路肩にとまっていなければ私たちのバスも巻き添えをくって大変な事故に遭っていたと思います。
「私たちは生きているのが当たり前ではないんだ、生きているのは奇跡なんだ」
そう思わずにはいられませんでした。
宮城県を通過して初めての休憩場所のトイレで私はずっと手にもっていたイソジン液のカップを捨てました。多くの物を残して、見捨てて、逃げてきた自分。ごめんなさい。
ごめんね。本当にごめんなさい。

それから、しばらくの間、私たちは「逃げた人」と呼ばれました。  つづく
by tonkoid | 2014-06-25 20:03